より良い明細書を目指して



(その1)従属請求項における主語を表す助詞は「が」であるべきである。

 クレームに従属項というものが書かれるようになってから既に20年近くがたっているはずです。従属項は、独立項に既に記載されている要件について、さらに具体的に限定を加えるものです。従って、「前記Aが〜である、請求項1の〜装置。」となるのが通常です。ところが、これを、「前記A〜である、請求項1の〜装置。」と書く人が、結構いるのです。このような文章に接するたびに、違和感を感じ、ここで用いる助詞は「が」であるべきなのに、こういう文章を書く人は、日本語が分かっていないと思っていましたが、さて、その理由は?となるとうまく説明できませんでした。

 「日本語練習帳」(大野晋著・岩波新書)という面白い本が、この疑問に答えてくれました。著者は、本書の中で、「は」と「が」とを「主語−述語」の形だけで見てもその差は分からないと記した上で、「は」と「が」の違いについて、おおよそ次のように述べています。・・「は」の文章では、主語+「は」の部分で題目(問題)を提示し、文末にその「答え」が来る構造になっている。例えば、「山田君は、ビデオにうずもれて暮らしている。」という文章では、「山田君は」の部分が文章の題目であり、「暮らしている」という結びの一句がそれに対する「答え」になっている。
 一方、「が」は、直前の名詞と次にくる名詞とをくっつけて、ひとかたまりの名詞相当の句の型を作る「接着剤」のような役割がある。例えば、「風が静かな日は廊下で日向ぼっこをする。」という文章では、「風が静かな日」でひとまとまりの名詞相当の句を形成している。・・・
 上記の従属請求項の例で見てみると、「が」の文章では、「前記Aが〜である」までがひとかたまりの観念(形容詞句)を形成しており、それが後の「請求項1の〜装置。」にかかる構造になっています。従って、この文章は日本語としてしっくり来るのです。しかし、「は」の文章はそのような構造にはなりません。「前記A〜である。」というひとつの文章が独立して成立しているだけであり、その部分は後部の「請求項1の〜装置。」とはつながらないため、違和感があるのです。
 本書を読むと、従属項の中で限定する主語を表す助詞は「が」を使用すべきであり、「は」は、日本語として不自然であることが納得できます。

(2003・6・18付記:養老孟司先生が、(新潮新書)「バカの壁」の中で、「は」と「が」の違いについて興味深いことを書いています。
 「昔々、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山へ柴刈りに・・・」という、誰でも知っている一節の「おじいさんとおばあさんが」の「が」と「おじいさんは」の「は」の違いについて、これは、まさに、定冠詞、不定冠詞の機能をしている、というのです。
 さすが、養老先生、日本語の「が」と「は」には、定冠詞、不定冠詞の機能があると指摘されました。「日本語練習帳」の大野先生も、これには気が付かなかったようです。)



(その2)「前記」と「該」の使い分けについて

 クレームに書く構成要件のうち、新しく出る名詞と既に出た名詞を区別するために、英語では不定冠詞と定冠詞を使いますが、日本語では、「前記」(英語のsaidに相当。)の有無で区別することになります。この「前記」と同じような意味で用いられるものとして、「該」もあります。しかし、「前記」と「該」をどのように使い分けるのかについては、ルールがないようです。そこで、「前記」は、一般的に既に前に出ているものであり、「該」は、直前に出ているものであるというように使い分ければよいのではないかと思います。「該」とは、本来、「まさにその」という意味であり、日常、殆ど使うことはない用語なので、「直前に出ているもの」という稀にしか出番のない役割でよいのではないかと思います。

 なお、日本語では、英語の真似をして「前記」等と言わなくても、前後関係からして、自ずから判断できるはずとして、「前記」を使わない人もあり、特許庁でも、この点は、厳格な運用はしていないようですが、アメリカに特許出願したらそうは行きません。この点をちゃんと記載しておかないと、必ずobjectionがかかります。よって、国際基準を目指す限り、日本出願においても、そのまま英語にできるような明確な書き方をすべきです。



(その3) 物の発明は物の発明らしく書こう!

 「幻の最高裁判決(曲率半径誤記事件)」における「脇下汗吸収パッド」の考案のクレームは、「吸水・吸臭層と止水層とを備える袖添付け部と身頃添付け部とを吸水・吸臭層を内面側に対向させて重合し、両添付け部を彎曲連結部で相互に連結し、袖添付け部と身頃添付け部の内面側に両面接着テープを取付け、袖添付け部と身頃添付け部を前記彎曲連結部より曲率の小さな3つの彎曲を連ねた縁形状としたことを特徴とする脇下汗吸収パッド。」です。
 各文節が動詞で終わっていることに注意して下さい。しかし、これを英語に訳そうとすると、はたと困ります。何故なら、英語では、A、B、Cという要素からなる装置の発明(物の発明)は、「〜したAと、〜したBと、〜したCからなる〜装置。」と書かねばならず、ここで、当然のこととして、A、B、Cは名詞でなければならないからです。(英語では、文節が動詞で終るのは方法のクレームの場合です。)従って、前記のようなクレームはそのまま英訳することはできず、英語にするための「前加工」が必要になるのです。 

 では、日本人は、何故、名詞を使った表現ではなく、動詞を使った表現をしたがるのか?という疑問が生まれます。この答えは容易には見つからないのですが、養老先生の「カミとヒトの解剖学」という本に、「ルターは『酒、女、歌、これを好まぬ者は一生馬鹿で終る』といった。わが国ではこれを、『飲む、打つ、買う』と動詞にする。」とあり、これが、少し手掛かりになるような気がしています。

 或る弁理士は、日本人が、名詞ではなく動詞の表現を好むのは、例の、明晰さを嫌い、曖昧さを好む、という性質と関係があるのではないかと示唆しています。「日本語練習帳」の中でも、この問題が取り上げられており、「・・・日本人は強い行動をきらう。なるべく薄衣を着せて、霞がかかるように動く方が上品で優雅だと思い馴れています。しかし、自然科学から得た知識がこれほど世界を動かしている時代に、知的判断の交換に使う文章ならば、霞の衣で包むことを美徳としていいかどうか。」とあります。特許明細書は「知的判断の交換に使う文章」の最たるものです。特許明細書の世界では「日本人の美徳」は通じません。「日本語練習帳」の中でも鮮明の極致として紹介されている「花は桜木。人は武士。」のような文章を目指すべきです。(私が弁理士になった昭和40年代は、物の発明でも、「〜して、〜して、〜した〜装置。」と動詞形で書くのが当たり前で、「〜したAと、〜したBと、〜したCからなる〜装置。」と書くのには、抵抗があったことを思い出します。)

 日本は世界最大の特許出願国であり、その公報は英語に訳されて世界に発信されます。物の発明は物の発明らしく書こう!と提唱する所以です。



(その4) 「曖昧な日本の私」

 この「曖昧な日本の私」というのは、大江健三郎のノーベル賞受賞記念講演のタイトルです。
 当所では、外国特許出願するときは、まずは、日本語の明細書を忠実に英訳してアメリカの代理人に手直しして貰うことにしています。
 最近、他の日本の弁理士が書いた明細書を忠実に翻訳して送った案件の中に、「ほぼ同じ大きさの無数の空隙」という表現があり、英訳するときは、特に気にもならなかったのですが、アメリカ代理人から、これでは出願できないと言われました。

 確かにその通りで、2つのものの比較でさえ、それらが「ほぼ同じ大きさ」であることをどうして証明するのでしょうか?まして、「無数の・・・」ともなれば、それらがほぼ同じ大きさとはどういうことか、わけが分からなくなります。
 アメリカ代理人に、これは、例えば、「全空隙の中から90%の空隙を取り出したとき、それらすべての空隙の大きさが平均値から10%以内に納まる。」というような数値に基づく表現でなければ通用しないと指摘され、成程と思いました。
 しかも、この場合、「空隙」というのは3次元なので、その大きさをどう計って比べるのかという問題もあります。

 山本七平氏が、或るところで、「曖昧な日本語では戦争はできない。」と言っていたのを思い出しました。
 アングロサクソンとは、科学・技術の世界でこのような考え方をする民族なのであり、曖昧な日本人では、太刀打ちできそうもありません。故に、戦争すれば負けるのが当然であり、戦後半世紀以上たっていても、日本人は大して変わっていないということか?と感じざるを得ませんでした。

 なお、面白いことに、同一の文章は、中国、韓国、台湾へも送ったのに、これらの国の代理人からは、何も疑問は出てきませんでした。そうすると、アジア人には、共通の曖昧さがあるのか?という気もします。



(その5) 物の発明を動詞形で書くことの問題点

 日々、特許公報に接していると、今でも、物の発明を動詞形で書くことは花盛りであることが分かります。ここで使われる動詞は、「〜を取付け」、「〜を固定し」、「〜を形成し」、「〜を連結し」等が代表的です。

 ところで、例えば、「〜を取付け」の主語は何か?と考えると、この文には動詞と目的語はあるのに主語がない、ことが分かります。従って、このような日本語の文章をコンピュータ翻訳にかけると、「主語がない!」と指摘され、翻訳不能になるのです。
 しかし、日本語でも、(省略されることはあっても)本当に主語がないことはあり得ないので、さらに、隠された主語は何か?と追究して行くと、その文章を書いている人が主語というのは変だし、最後にある「〜装置。」が主語というのも変(装置が、自分で何かを取付けたりするはずがない!)なので、このような文章は、結局、「〜を取付け」ではなく、「〜が取付けられ」という、目的語を主語に変えた受動態と同等であるということが判明します。

 それにしても、このように、主語のない文章を平気で書き、普段は、「〜が望まれる。」とか「〜が急がれる。」とか、(責任のがれの)受動態表現を好む日本人が、このような場合は能動態表現を好むというのは、不思議です。



(その6) 自動詞と他動詞を峻別しない日本人

 日本語の特許明細書で、「樹脂を基材に含浸」のような表現には、よく遭遇します。しかし、「〜を」という目的語を伴っているからには、この場合の動詞は他動詞でなければならないはずなのに、「含浸し」は自動詞ですから、これは日本語としても変な文章と言わざるを得ません。正しくは、「樹脂を基材に含浸させ」であるはずです。

 日本人には、自動詞と他動詞を峻別しないくせがあるようです。その理由は?と考えると、日本人には、発明の対象物に働きかけているのは人間だけで、発明の対象物は受動的に働きかけられているだけなのである、という発想がないためではないかと思われます。白黒二分説に立つ白人は、意志のある人間(主体)と意志のない物(客体)を峻別する考え方をしているはずです。

 このように、日本人には、自動詞と他動詞を峻別しない傾向があることが、「立ち上げる」のような、自動詞と他動詞を結合した、気持ちの悪い用例に対してもさほど抵抗を感じないことにつながっているのでしょう。最近では、NHKのアナウンサーまでが「立ち上げる」を使うのにはうんざりです。

(2006・9・28付記:電車の中で、或る頭痛薬の広告が目にとまりました。そこには、「眠くなる成分が入っていない頭痛薬」とあり、「眠くなる成分」という表現は、日本人には、何の抵抗もないのですが、良く考えると、これはおかしな表現です。何故なら、「眠くなる」のは「成分」ではなく、実は、薬を飲む「人」であるからです。日頃活用しているパソコンの翻訳ソフトを使うと、機械は、実に、素直に、ingredient が become sleepy と訳します。パソコンは機械に過ぎな いので、日本人には、自動詞と他動詞を峻別しないくせがあり、この場合、「眠くなる」とは、正しくは、「(人を)眠くさせる」という意味であると、解釈又は訂正しなければならないことまでは考えが及びません。パソコンに翻訳機能を果たさせるためには、事前に、日本語の見直しが必要であることを再度考えさせられました。)



(その7) 日本人と動詞表現

 (2004・9・24発表)

 教育テレビの「日本語なるほど塾」を見ていたら、「日本人は何故動詞表現を好むのか?」の疑問に対する回答らしきものに遭遇しました。ゲストの加賀野井秀一氏によれば、『もともと日本語は「なんとなく春めいてきたなあ」というような動詞構文が中心で、「生成」や「推移」の感覚をあらわすのが得意ですが、欧米語は"Spring has come."のように名詞構文が中心で、「春」という実体がヨッコラショとやってくるような表現をします。』とのことで、日本語が、欧米語の名詞構文の影響を受けて変わって来たのは、幕末・明治の開国以来のことであるとのことです。(欧米語では「酒、女、歌」が日本語では「飲む、打つ、買う」になるのも、多くの人が物の発明のクレームを今だに動詞形で表現したがるのもこれで納得です。)

 動詞構文中心の本来の日本語は二千年以上の歴史があるのに対し、欧米語の名詞構文は百年ちょっとの歴史しかありません。故に、動詞構文中心の言い方は、いわば日本人の遺伝子に組み込まれている表現法であるわけで、かつて、物の発明を名詞構文で書くことに抵抗を感じたのはそういうわけだったかと納得がいきました。動詞構文は、「生成」や「推移」という動きをあらわすものですから、対象を固定して分析しようとする態度には結びつきにくいのに対し、名詞構文は、対象を固定し分析しようとする態度に結びつきやすいということができます。科学技術が、まず欧米で発達したこととそのことが無関係とは思われません。やはり、科学技術的思考を育むのは名詞構文のほうだと思われます。明細書のクレームの書き方に戻れば、方法の発明のクレームは、どちらも動詞構文で書かざるを得ないので、物の発明のクレームは、これからは、欧米流に、名詞構文で書く人が多くなって行くであろうと思われます。